自分の過去の経験、とりわけ幼いころの経験が、誰にとってもこれは①いとおしいものなのです。自分の子供のころの経験というのは、人間にとって何か最も心暖まる思い出であり、子供であった時の世界というのは、個人の人生における、一つの故郷なのです。
②故郷というのは別に山があったり川があったりする故郷ではなくて、経験の故郷というのは幼児期に戻っていきます。「僕が子供だった時には」とか、「俺が小学校三年生のころには」などと、もう相当年配の方でも、あるいは年配の方になればなるほど子供時代を懐かしみ、子供時代をいとおしむ感情というものが戻っていくような、心の故郷です。本当の心が戻っていく経験の原型というのは子供時代にあるのです。
その子供時代の経験に比べてみて、現代はいかに変わっているか。そこで耐えられない気持ちになるわけです。自分の子供のころに自動車というものはなかった。原っぱで野球ができた。それから道路で自転車に乗れた。しかし、今は自動車がやたらに走っていて、人間はもう危険で歩けない。今の子供は気の毒だ、かわいそうだ。③これは非人間的である。そういうふうに飛躍するのです。ということは、人間本来の姿というのは、かなり私たち個人の勝手な独断によって創られているイメージではないかということなのです。本来の姿というのは、俺が子供ころのようにしろという、それだけのことを言いたいのではないか。もちろん、真剣に考えている人もたくさんいますが、現在の人間性回復論というものは、その点でものすごく甘いし、ずいぶん身勝手だと思います。
1.①いとおしいと意味が同じなのは、何か。A.なつかしい | B.かわいらしい | C.うつくしい | D.たのしい |
A.人生に迷いを感じたときに、心の温もりを与えてくれるところ |
B.思い出がいっぱいあり、人生の中の大切な人と一緒に過ごしたところ |
C.子供時代の思い出がある世界で、思い出すと心に安らぎを感じるところ |
D.幼いころ、仲間と一緒に遊んだりした美しい景色が楽しめるところ |
A.現代の子供は遊び場がなく、かわいそうだということ |
B.道には自動車が多く走っていて危険で歩けないこと |
C.昔は原っぱで野球ができたこと |
D.道路で自転車に乗れたこと |
A.人々は心の故郷がいつまでも自分の思い出のままで、変わらないでほしいと思っている。 |
B.子供時代の思い出は人々にとって故郷そのものであり、その思い出の中に真の人間性が育まれている。 |
C.今の世の中は危険で非人間的なので、人間性回復論を掲げることで人間本来の姿を取り戻さなければならない。 |
D.心の故郷を懐かしむのはけっこうなことだが、人間本来の姿は個人によって創られたイメージであり、今の人間性回復論には賛成できない。 |
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【推荐1】私の周囲には「現職教員」という別名をもつ大学院生が大勢いる。その人たちとの日頃のおしゃべりから伝れる教育現場は、ひどく窮屈で、ときに非人間的と思えることさえある。ある小学校では、食事のあいだは一言も口をきいてはならない、というきまりがあるが、『これは、初めのうちはなかなかむずかしいけれど、何度か教師が注意をしていると、そのうち黙って食べられるようになる。そうすることで、生徒にむずかしいことでもやればできるという①自信をもたせたい』、という②教育的配慮のもとにおこなわれているのだそうだ。そういえば、「子どもたちに、自主的に取り組ませる(取り組む+させる)」という③言語的矛盾ともいえる表現を教師は、頻繁に使う。この場合、自主的というこばは、「やる」「やらない」を含めて、子ども自身がすべてをきめるときに、本来の意味にかなうと思うのだが。
④これは極端な例外的ケースだと願いたいが、子どもの教育に携わる者の中には、子どもの両側に狭い幅で柵をもうけ、正しい道からそれないように、正しい目的地に最短距離で到着するように導いてやることが、おとなの使命であると確信している人が少なからずいる。( ① )、そのような操縦は子どもに「自分が自分でなくなる」危うさをかんじさせることにつながりかねないことを、おとなは十分に認識すべきである。自尊感情は、個人に、失敗する自由、やらない自由、できなく悔しがる自由など、いろんな自由があって、自分で何かを決定し、少しずつ自分が自分自身になじんだうえで生まれてくる、「これでやっていける自信」のようなものなのだと思う。したがって、子どもの側にどのようにいきるか、どのように行動するか、どのように感じるかの自由がほとんど残されていないとき、自尊感情は育ちようがないであろう。
これまでの研究によれば、おとなの介入が大きければ大きいほど、子どもの自尊感情は低く、うまくできるようになろうとする意欲が乏しく、自分で自分を制御することが困難であるという。自尊感情は、幼いときの養育者のあたたかなしつけの態度と関連しているという研究もある。これら研究が示唆するところは、周囲のおとながあたたかく見守り、子どもに任せる部分を大きくすることが、自尊感情が育つうえで最低限必要だ、ということである。
そもそも、おとなの介入によって、成功を体験させることができるのは、人間が生涯において繰り広げる多様な能力や行動のほんのわずかである。そのほんのわずかのプレゼントを送るために、子ども自身の自律を損ねてはならない。
むろん、そうするためには、子どもをおとなの「自尊感情」を高めるための道具にせず、おとな自身が自立していなければならないのだが。
1.「自信を持たせたい」と思っているのは誰か。A.筆者 | B.大学院生 | C.教師 | D.子ども |
A.子どもが教師の指示に従うように |
B.食事のマナーを身につけさせるように |
C.間違った行動をとらせないように |
D.子どもに自信をつけさせるように |
A.自主的に決めるということと、強制的にさせるということ |
B.むずかしいことをさせるということと、自信を持たせるということ |
C.大学院生であるということと、現職教員であると言うこと |
D.「やる」と決めることと、「やらない」と決めること |
A.矛盾した表現を使うこと |
B.食事中に話をさせないこと |
C.子どもに決定をさせること |
D.むずかしいことをさせること |
A.だから | B.しかし | C.つまり | D.そのため |
【推荐2】「勤勉こそ美徳である」という言葉は、21世紀には死語にしたい。「心豊かに生きることこそ美徳である」という言葉をそれに代えたい。
これまで日本人はよく働く国民であると世界的に評価されてきた。ところが、最近は事情がだいぶ変わってきた。日本人は働き過ぎだというのである。働くことだけに一生を費やしてしまう日本人は、「働きバチ」にたとえられ、非難の対象にさえなっている。もちろん、「働きバチ」にも言いわけがないわけではない。狭い国土、高い人口密度、乏しい地下資源。日本という国が生き延びていくには、とにかく働くしかなかったのである。これを支えてきたのは、勤勉以外の何ものでもない。
しかし、そうは言っても、世の中というのは常に動いている。20世紀の日本と21世紀の日本が同じはずはない。勤勉さのおかげで物質的に恵まれた日本は、そのことを土台にして新しい方向へと進んでいかなければならない。( ⑤ )というこれまでの考え方は、当然、反省されなければならないし、働きさえすればあとはどうでもいいという思想も改めなければならない。例えば、過労死の問題。人間は生きるために働くべきなのに働いたために死んでしまう人がいる。何かを変えなければならない時に来ているのである。
そこで考えられるものの一つがコンピュータである。コンピュータという言葉と聞いただけで、何か難しい、面倒臭いというイメージを持つ人がいるが、そういう人に会って話を聞いてみると、たいていこれまでの考え方を変えずにコンピュータを頭から嫌っている。これまでの考え方というのは、もちろん勤勉こそ美徳であるという考え方である。なぜコンピュータを使うのか、その最も大事なところがきりんと理解されていない場合が多い。つまり仕事をこれまでよりもたくさんするためにコンピュータを使うのだと考えているのである。しかし、これは大きな間違いである。間違いと言って悪ければ、改めるべき習性といってもいいかもしれない。
私は長年、コンピュータの開発に努めてきたが、使う人の仕事量を増やすために開発を急いできたのではない。まったくその逆である。少しでもみんなの仕事量を減らそうと思って努力してきたのである。コンピュータの最大の利点は、仕事にかかる時間を短縮するということである。例えば、これまで2日かかった仕事が、コンピュータのおかげで2時間で済んでしまう。利用者はこの点をもっとよく考えてほしい。あとの時間はすべて遊べとは言わないが、少なくとも何時間かは仕事以外のことに使えるはずである。その何時間かをいかに豊かに使うかにこれからの日本がかかっていると言っても過言ではないのである。
1.「事情がだいぶ変わってきた」とあるが、これはどういうことか。
A.よく働く国民の一生の過ごし方が変わった。 |
B.世界の日本人に対する見方が変わった。 |
C.働くことに対する日本人の意識が変わった。 |
D.日本人の働き過ぎだという評価が変わった。 |
A.働かなかったら日本は生き延びただろうという言いわけ |
B.働かなければ日本の国土は狭くなっただろうという言いわけ |
C.働かなければ日本は生き延びられなかっただろうという言いわけ |
D.働かなかったら日本の人口はますます増えただろうという言いわけ |
A.勤勉だけである |
B.勤勉以外の何かである |
C.勤勉と何かである |
D.勤勉だけではない |
A.「働きバチ」と言われること |
B.物質的に恵まれたこと |
C.勤勉こそ美徳である |
D.地下資源が乏しいこと |
A.勤勉よりも物質 |
B.物質がすべて |
C.物質よりも勤勉 |
D.土台がすべて |
【推荐3】学級崩壊という言葉が使われ始めてから、早いものでもう10年以上経ちます。その原因は「親のしつけにある」とか「教師の指導方法が問題だ」とか、「本人に障害がある」とか言われてきましたが、未だはっきりしません。解決の特効薬は見つからず、大きな社会問題となっています。
学級崩壊した教室の特徴として見られるのは、小学校低学年の子供たちが授業中席につけず、話を聞けないことです。それが、教室活動の妨げにもなっています。学級崩壊の原因は模索中とはいえ、それが見つかるまで子供たちの成長を止めることはできません。大人になる前に、社会生活で必要な知識を身につけなければならないのですから、何としてでも解決策を見つけ出さなければなりません。
( ア )学校の先生たちは、様々な工夫をするようになりました。例えば、問題のある子供が授業に集中できるように、教え方や注意の引き方を変えてみる——言わば児童指導のスキルを磨くこと。また、体を動かしたり、眼球トレーニングをすることで集中力をつけさせるなどです。
それらを実施した学校では、子供たちに好評で少しずつ効果も出てきているようですが、その効果がずっと続くかどうかはわかりません。子供たちの明るい末来のためにも、こういった先生たちの努力のほかに、原因を究明することが欠かせないでしょう。
1.下線の「学級崩壊」を説明するものとして最も適切なものはどれか。A.学級崩壊は、子供たちの学習の機会を奪ってしまう恐れがある。 |
B.学級崩壊は、子供の性格や障害、親のしつけなどに原因がある。 |
C.学級崩壊は、ここ数年で社会問題として取り上げられるようになった。 |
D.学級崩壊は、原因は分かっているが解決方法がまだ見つかっていない。 |
2.文中の( ア )の中に入れるのに最も適当なものはどれか。
A.それに | B.そこで | C.それで | D.そして |
3.先生たちの「工夫」とはどのようなものか。
A.子供たちの注意が授業に向くように、新しいやり方で授業を行うようになった。 |
B.集中力をつけるための訓練を自分たちで開発し、実際に子供たちにやらせてみた。 |
C.子供たちが社会生活で必要な知識を身につけられるような授業を行うようになった。 |
D.授業に集中しないことはよくないことだと子供たちに丁寧に説明するようになった。 |
4.下線の「原因を究明することが欠かせない」とは、どんな意味なのか。
A.原因を究明してはいけない。 | B.原因を究明する必要はない。 |
C.原因を究明するほかはない。 | D.原因を究明しなくてはならない。 |
5.筆者は、学級崩壊についてどのように考えているか。
A.教師は親と協力しあい、原因を見つけるための努力を続けていくことが欠かせない。 |
B.教師の工夫によって改善してきているが、根本的な原因を見つけなければならない。 |
C.教師の努力によって改善してきているが、引き続き教師が努力することが最も重要だ。 |
D.教師だけに任せるのではなく、社会全体で原因を究明しなければ問題は大きくなる一方だ。 |