数学に関してぜひとも言っておきたいことがあります。
数学が嫌い人が多い理由の一つは、数学はできるかできないかがはっきりしているためです。できないとどうしても嫌いになるのです。そこで、ぼくがどうやって数学を勉強したか、それについて話をします。
ぼくは、14歳のとき、夏休みにずっと親の別荘にいて、昼間ずっと数学の問題を解いていました。数学の分厚い問題集の中の問題を解く。これはけっして日本人ができないことではありません。ただし、日本人の多くの学生は、問題をちょっとだけ考えて、すぐできればいいけれども、できなかったらすぐに解答のページをめくって「ああ、なるほど」と納得して、つぎの問題に移るのです。これではダメです。(中略)それでは頭の中に残りません。自分にとっては、どちらかというと失敗の体験なのです。問題は解けなかった。解答を見てわかったけれども、解かなかったのです。
ぼくはそうではありませんでした。ぼくは問題は自分の力で解くべきだと考えて、それを断固実行したのです。5分や10分でできた問題もあれば、30分も1時間もかかった問題もよくありました。1時間でもできない問題の場合には、ぼくはベッドの下の引き出しに入りました。横になってふたを下ろすと、まったく暗闇の中です。その身動きができない状態で数学の問題を考えたのです。
ぼくは、問題が解けないかぎり、ここから出ないと決心しました。頭の中では数学の問題をずっと考えて、そして結局、解けたのです。さもなければ、いまごろはミイラになっているでしょう。
そんな悠長なことはしていられない。自分が一つの問題を5時間も考えているうちに、ほかの人は20問も答えがわかってしまう。それでいいのだろうかと思う人がいるでしょう。でもちがうのです。
「問題を自分の力だけで解いてしまうことができた。やった!」と、大きな喜びを感じられます。そして、数学にもっと興味がわいてくるのです。数学はおもしろいな、楽しいなと思えるのです。かんたんな問題でもいい。それを自分の力で解くことによって、興味がつぎつぎにわいてくるものです。それはポジティブな記憶になります。ポジティブな記憶は、頭の中に残るのです。
逆に、解答を見て20問がわかったとしても、「結局できなかった」と虚しさが残るだけなのです。この記憶はネガティブな記憶ですから、脳が忘れてしまうのです。
このように、ポジティブな記憶を残していくこと、そのためにいろいろな方法を自分なりに考えてください。そして実行してみて、自分に合わないとわかれば、別の方法を探せばいいのです。ぼくのとった方法もぜひ参考してみてください。
(ピーター・フランクル『ピーター流らくらく学習術』岩波書店による)
1.筆者は数学が嫌い人が多くのはなぜだと言っているのか。A.できるまでに長い時間がかかるから |
B.できてもできなくてもわからないから |
C.できるかできないかのどちらかだから |
D.できるかできないかがよくわからないから |
A.夏休みに昼間ずっと親の別荘にいること |
B.数学の問題集にある問題を解いていくこと |
C.数学の問題をちょっと考えてすぐ解いてしまうこと |
D.親と一緒に数学の分厚い問題集の中の問題を解くこと |
A.問題が多いすぎて頭の中に残らないから |
B.解答を見ても納得できず、解かなかったから |
C.問題が解けなかったという失敗の体験になるから |
D.解答をみて解き方が失敗だということがわかったから |
A.5分や10分でできる問題をたくさん解くこと |
B.問題が解けるまでずっと何時間も考えつづけること |
C.ベッドの引き出しの中で身動きもせず横たわっていること |
D.解答のページをめくって、わからない問題の答えを調べること |
A.ネガティブな記憶は、頭の中に長くとどまらない。 |
B.ポジティブな記憶は、ネガティブな記憶ほど残らない。 |
C.ネガティブな記憶は、いやな体験として長く記憶される。 |
D.ポジティブな記憶は、長い時間をかけて初めて得られる |
相似题推荐
【推荐1】ずっと一つの疑問が解けないままだった。
「最もエネルギーにあふれているはずの自分のからだが、なぜこんなにもだるく疲れているのだろうか」
二十代のある日、野口晴哉の本の一節を読んだとき、ひっかかっていたこの問題が氷解した。私の記憶に残る一節の趣旨は、こういうことだ。
だるい状態とは、エネルギーがなくて疲れている状態ではなく、むしろ逆にエネルギーが過剰な状態である。私たちは、しばしば、だるさと疲れを混同してしまっているが、両者は正反対の状態なのだ。疲労しているならば休む必要があるが、だるいときは動く必要がある。
これを読んだときに、なぜ中学以来あれほど「かったるかった」かが理解できた。あれは、疲労感ではなく、エネルギーを注ぐ場所を見いだすことができずに、エネルギーが滞留した不快感だったのだ。いわば、きちんと疲労することができないでいる状態が、あのかったるい身体であった。心地好く疲れる場所を探していたのだ。
、疲労感とだるさが対照的な感覚であるとすると、二つを混同してしまう私たちの身体感覚は、いかにも鈍すぎはしないか。この感覚の鈍さは、つまり、次に自分は休むべきなのか、それとも動くべきなのか、が自分でわからないということでもある。エネルギーの充電と放散のリズムが掴めない身体感覚の鈍りは、近代的身体に固有の現象ではないか。だるさと疲れを感じさせる何かの仕組みがあるのではないか。
(齋藤孝『くんずほぐれつ』文藝春秋による)
1.「だるく」感じるのはどのような状態のときか。A.体力がなくなっている状態 |
B.力が必要以上にたくさんある状態 |
C.疲れているため気持ちが悪い状態 |
D.エネルギーが切れそう状態 |
2.筆者は、自分のからだがだるくなる理由をどうとらえているか。
A.疲れて不快だと感じていたから |
B.疲れたとききちんとからだが感じなくなっていたから |
C.エネルギーを消費できないでいる状態だったから |
D.心地よく疲れがとれる場所が見つからなかったから |
3.この文章で筆者が言いたいことは何か。
A.若者のエネルギーにあふれている身体はだるいと感じやすいのではないか |
B.十代や二十代の若者にとってだるい身体を休める場所を探すのが難しいのではないか |
C.疲労感とだるさを混同してしまうのは若者固有の現象ではないか |
D.身体の感覚の鈍さは昔からあったものではなく、最近になって表れたものではないか。 |
A.それとも | B.それから | C.それにしても | D.加えて |
A.だるい身体 | B.だるくない身体 | C.疲れた身体 | D.疲れていない身体 |
【推荐2】今山形県では耕地面積がほんのわずかながら減少して、①山が増えていると思う。それは農業の近代化の(②)、利益にならない畑などが見捨てられ、もう一度山に返っているかららしい。農業の大型化、機械化という人工の技術が、逆にもともと山だった畑をもう一度山に戻していると聞いて、なるほどと思った。
人間は必然的に自然を人工化し、自然を巧妙に人工の風景に変えてゆく。それが人間が豊かに住むための新しい環境なのだとすれば、止めることはできまい。そうして、いつの間にか、山などの土地は人間の目的に従った人工の風景に変わってゆく。
しかし、人の手がちょっと抜けると、山はすぐに元の姿に返ってゆこうとする。③人間と自然との勝負は決まってはいないのだ。自然の復元力というのが、今でもひそかに働いていることを知って、④私は少し安心した。
『自然と人工』多田富雄 新編国語総合
1.①「山が増えている」原因にならないのは次のどれか。A.農業の近代化 | B.農業の大型化 | C.農業の機械化 | D.自然の人工化 |
A.おかげで | B.せいで | C.わりに | D.くせに |
A.人工の風景は手入れしなければ、元の姿に戻ってしまう。 |
B.人工の風景は手入れさえしなければ、元の姿に戻らない。 |
C.人工の技術さえあれば、簡単に自然を変えることができる。 |
D.人工の技術がなくても、人間は自然の力に勝つことができる。 |
A.人間との自然の勝負は決まってはいないから |
B.自然の復元力が今でも役割を果たしているから |
C.自然の復元力を知って、自分も働いているから |
D.自然が必然的に人工化され、人工の風景に変えたから |
A.耕地面積が減少したのは人の数が減ったからである。 |
B.耕地面積が減少すると自然の力がさらに強くなる。 |
C.人工の力と自然の力は常に対等に戦い合っている。 |
D.人が手入れすることによって自然の復元力を失う。 |
【推荐3】「我を忘れる」という表現がある。自分のことを忘れる、というのだから変な感じがするが、考えてみるとなかなかうまい表現だなと思う。映画などを見ていると、知らないあいだに主人公に同一化してしまって、主人公が苦境に立つと、こちらも胸が苦しくなったり、知らないあいだに手を握り締めていて、汗が出たりする。①それは別に映画の話であって、自分が椅子に座ってそれを見ているのだから、何のことはない、と言えばそれまでだが、そんな観客としての自分のことは忘れてしまっているのだ。
子供の劇場の仕事をしている人たちと雑談していると、面白いことを聞かせていただいた。最近の子供たちは、劇を見ていても、それに入り込まずに、いろいろなことを言って、やじ(起哄)で劇の流れを止めようとする。ピストル(手枪)を見ると、「あんなのおもちゃだ」と言う。人が死んでも、「死ぬ真似しているだけ」と叫ぶ。悲しい場面のときに、妙な冗談を言って笑わせる。要するに、「クライマックス(剧情高潮)に達していくのを、何とかして妨害しようとしている」としか思えない。こうなると劇をする人も非常に演じにくいのは当然である。
主催者の人たちがもっと驚き悲しくなるのは、そのような子供たちがやじで騒いで喜んでいた後で、その子の親たちが、「今日は子供たちがよくノルしていましたね」と喜んでいるのを知ったときであった。この親は「ノル」ということをどう考えているのだろう。子どもたちは騒いで楽しんでいるかのように見える。しかし、実のところは劇の展開に「ノル」のに必死で抵抗しているのだ。「我を忘れる」のが怖いのだ。
1.①それは何を指しているか。A.主人公が苦境に立っている状況。 | B.映画を見ている状況。 |
C.胸が苦しくなったり、汗が出たりすること。 | D.主人公に同一化すること。 |
A.満足している。 | B.驚きと悲しみ。 |
C.興奮している。 | D.完全に無関心。 |
A.最近の子供たちはすぐ「ノル」ので、劇をする人は演じやすい。親もそのことを喜んでいる。 |
B.最近の子供たちはやじで騒ぐので、劇をする人は演じにくくて困る。しかし、子どもが楽しんでいるのだから、親と同様に演じる側も喜ぶべきである。 |
C.最近の子どもたちは、映面や芝居の世界に入り込んで「我を忘れる」、ということが少ない。親もそのことに気づいている。 |
D.最近の子どもたちは、映面や芝居の世界に入り込んで「我を忘れる」、ということが少ない。 |
A.積極的に望んでいる。 | B.完全に受け入れている。 |
C.恐れている。 | D.全く気にしていない。 |
A.必要ないと思っている。 | B.文化の違いだと思っている。 |
C.良い体験だと肯定している。 | D.人との関わりがないと批判している。 |