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题型:阅读 难度:0.4 引用次数:6 题号:22826439

何か不正なことがあった場合、それに抗議するのは権利でなくて義務だと言う。例えば、電車に乗る場合に、乘客が長い列を作って待っている。やっと電車が来て、乗客が順々に乗り込む。その時、横からその列に割り込んで電車に乗ってしまう人がよくいる。そういう時に、自分の前に横から一人くらい割り込んできても、ちょっと嫌な顔をするくらいで、そのまま黙認してしまうことがある。

こういう場合は「横から割り込まないでください」と抗議をすべきである。」

それを何も言わずに許してしまうことは一つの道徳的な罪悪であることをよく承知すべきである。一人くらいのことにむやみと(胡乱地)やかましく言うことを何となく恥ずかしいこように考えるのは大変な間違いだ。これは恥ずかしいなどという問題ではない。実は、非常に利己的な考えが、その人の心の底に意識されずに潜んでいるのである。

(ア)、横からだれかが割り込んできても、黙認してしまうのは自分もその人について電車に乗り込めることが明白な場合に限るからである。もし、その人が乗ることによこって、自分が乗れなくなる場合だったら、必ず抗議をするに違いない。それをそのまま黙っているのは被害が自分に及ばないからである。しかし、そのためにだれか、後ろの方で取りに残される人が出てくるかもしれない。そうすると、その人は次の電車まで長い問待たなければならないのである。

1.文中の「それ」の指すことはどれか。
A.何か不正なことに抗議することB.だれかに横から割り込まれること
C.割り込むことを黙認することD.恥ずかしいから割り込まないこと
2.文中の「これ」の指すことはどれか。
A.割り込む人にやかましく言うことを恥かしく思うこと
B.人の心の底に潜んでいると考えること
C.取り残される人が電車を長い間待たなければならないこと
D.筆者が電車を待つ時に割り込むこと
3.文中の(ア)に入れるのに最も適当なものはどれか。
A.ずっとB.まさかC.つまりD.すると
4.文中に「必ず抗議をするに違いない」とあるが、なぜか。
A.電車に乗る気持ちが悪いからB.電車が遅くまで来ないから
C.時間に間に合わないからD.自分が電車に乗れなくなるから
5.この文章の内容に合っているものはどれか。
A.不正なことがあった時、許すのは道徳的な罪悪だ。
B.横から割り込んで電車に乗るのは個人の自由だ。
C.何も言わずに許してしまうことは利他的な考えだ。
D.笨者は横からだれかが割り込んできても黙認してしまう。
【知识点】 议论文

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【推荐1】4年に一度行われる世界的なイベントと言えば、オリンピックとサッカーのワールドカップだと私は思う。どちらもテレビで世界中に放送され、何億人という人々が見ると言われる。その期間中は会社に行けば、「昨日のあのゲーム、すごかったね。感動したよ。」と話しているし、うちに帰れば、家族が「ああ、応援していた人やチームが負けて悔しい!でも感動した」などと話している。どこに行ってもこんな調子だ。


( ア )、もし、「へえ、そんなにすごかったの?」などと聞いたら「えっ、うそ!どうして?テレビ見ないの?」と不思議がられることが多い。つまり、国中が「見ないほうがおかしい」という雰囲気になってしまうのだ。私もスポーツを見て感動することはある。ただ、人から「お前も見て感動しろ」と言われたくないだけだ。見る、見ない、そして、感動する、感動しないは個人の自由ではないだろうか。自分の好きなことを押し付けられても困るのだ。

多くの人は無邪気な親切心で「お前も見れば感動するよ」と言っているのだろうが、余計なお世話だと私は思う。周りに同調しなければいけないというような雰囲気は、落ち着いて考えてみると恐ろしいことだとも思う。人はどうして自分の好みを押し付け、自分の価値基準で他人を推し量ろうとするのだろうか。わたしはオリンピックとサッカーのワールドカップが開催されている間、こんなことを考えていた。

もちろん、オリンピックやサッカーのワールドカップが悪いと言っているのでは決してない。ただ、開催されている間の、周りの人たちの雰囲気について、感じたことを述べてみた。みなさんは私の気持ちを分かってくれるだろうか。

1.文中の( ア )に入れる最も適当なものはどれか。
A.だからB.それにC.しかしD.ところで
2.不思議がられる」のは誰なのか。
A.オリンピックとサッカーのワールドカップをテレビで見る人
B.オリンピックとサッカーのワールドカップには関心がない人
C.オリンピックとサッカーのワールドカップをテレビで見て感動する人
D.オリンピックとサッカーのワールドカップを見て好きな国を応援する人
3.恐ろしいことだ」とあるが、それはなぜか。
A.みんな試合の話で仕事をしないから
B.みんなが試合を見て感動しているから
C.見たくないのに無理やりに「見ろ」と言われたから
D.自分の価値基準で他人を推し量る人がいるから
4.オリンピックとサッカーワールドカップについての筆者の考えに最も近いのはどれですか。
A.オリンピックとサッカーのワールドカップで感動する人は異常だ。
B.オリンピックとサッカーのワールドカップで感動しない人はおかしい。
C.オリンピックとサッカーのワールドカップで感動することを強制されたくない。
D.オリンピックとサッカーのワールドカップで感動できないのはテレビのせいである。
5.筆者がこの文章で言いたいことはどれですか。
A.だれもが感動しているのに自分だけが感動できないのが不思議でならない。
B.見るか見ないか、それを見て感動するか感動しないかは個人の自由だ。
C.何に感動するかは人によって違うが、だれもが感動する対象を見逃すのは惜しい。
D.何に感動するかはどんな人も同じで一つだけだが、感動は強制されるものではない。
2023-04-13更新 | 42次组卷
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【推荐2】音楽とは何か、と言われたら、音による会話だと答えることにしている。音を通してある人の感情や思想が聞く人に伝えられる。それが音楽である。

こういう定義はいかにも当たり前のようだが、音楽はいつでもそういうものであるとは限らない。早い話が、私どもは、嬉しいにつけ悲しいにつけ、独りで歌を歌うことがある。誰に聞かせるわけでもない。感情は独りで流れてゆく。会話の相手はそこにはいない。

そういう歌も自分自身に対する語りかけで、やはり一種の会話だというなら、寺院や教会でうたわれる歌はどうだろうか。もちろんそれも神への呼びかけに違いないが、会話という言葉は必ずしも適当ではない。進軍ラッパや狩りの太鼓なども、一方的に意味を伝えるのだから本当の会話ではない。

今あげたような音楽も、音楽であることにまちがいはない。私の定義は、だから、定義でも何でもなくて、私自身が音楽に対してもっている願望であり、イメージなのである。

会話という限り、それは一方通行で与えられる刺激や快楽とはちがう。演奏会で音楽をやっているのは演奏家で、私どもはそれを默ってきいているだけだが、それは決して音を受身でうけとっているということではない。ぼんやりと音をきいていれば、音楽はただの音のつながりにすぎない。それを音楽としてきくためには、実は聞く側にいろいろな心の働きが必要なのである。

私がいまでも覚えているのは、小説家の高見順が死ぬ少し前にかいた日記の一節である。体が衰弱して本を読む気力がなくなり、音楽ならばとおもってきいてみたが、やはり駄目だったと彼はかいている。音はもちろん聞こえるが、音楽としては聞こえない。それは聴覚の衰弱ではなくて、聴覚がうけとったものを自分の内部で意味のある言葉として再構成する精神的能力の衰弱である。

音楽に限らず、芸術を鑑賞するというのは、他人の世界にふれようとすることである。音や色や言葉によって他人を理解するといってもいい。人は果たして他人を本当に理解できるかということは別にして、それを理解しようとする努力のなかに、芸術そのものの意味があると考えてもそう間違いはないと思っている。

1.文中の「そういう歌」とはどのような歌か。
A.寺院や教会などでうたわれる歌B.うたうともなくうたってしまう歌
C.聞かせることを思いながらうたう歌D.聞く相手がいないのに、独りでうたう歌
2.筆者が「ぼんやりと…つながりにすぎない」と言っているのはなぜか
A.音楽を音楽として聞くには、ぼんやりとした姿勢が必要だから
B.音楽はぼんやりと聞いていれば、心の動きが起こるから
C.音楽を音楽として聞くには、聞く側の能動性がいるから
D.音楽は一歩通行的に感動を与えるものであってはじめて音楽となるから
3.文中の「聴覚がうけとったもの…精神的能力」はどのような能力か。
A.内心で音楽を言葉に置き換える能力
B.心の中で音楽を再構成する精神的能力
C.音や色や言葉によって芸術を鑑賞する能力
D.音のつながりによって音楽を鑑賞する能力
4.筆者は音楽をどのようなものであると考えているか。
A.耳を通して人の内部に働きかけ、芸術で人の心を捉え、鑑賞力を再構成させる
B.感情のままに表現するものでありながら、うたう人はあまり関わりはなし
C.人の気持ちを伝えるものであり、その意味で音を通しての会話であると言える
D.真の意味での会話ではないから、ぼんやりとして鑑賞すべきものである
5.筆者が文章でもっとも言いたいことは何か。
A.芸術の意味は、鑑賞者との「会話」が成立するかどうかは別にして、作り手が他人を感動させようとする努力である。
B.音楽などの芸術は、鑑賞者が他人を理解しようとする努力の中に意味があり、一方通行ではない「会話」である。
C.音楽には様々な種類があるが、いずれも演奏家と聴衆との相互理解を目的とした「会話」という点では共通である。
D.芸術は、作り手が一方的に意味を伝えるものではなく、鑑賞者が自分の心を理解するための内面の「会話」である。
2024-01-04更新 | 29次组卷
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【推荐3】生きていく上で、心身のバランスが大切なのは言うまでもありません。今の私の支えとなったこれまでの経験、とくに登山や自転車を通じての自然との付き合いや食など、「からだ」について語らせていただこうと思います。

心身は不可分、(ア)「心身一如」だと実感しています。どんなに意志が強く、立派な志を持っていても、体を壊してしまうと、なかなか思いを実行できなくなってしまうことでしょう。やはり普段から体を労ることを意識していきたいものです。とくに運動をしているとついつい頑張ってしまいがちですが、やはりほどほどに「からだ」を使うという意味で心がけが大切だと感じています。

若い頃はついつい厳しい登山をしてしまいましたが、今はちょっとしたハイキングで も、こころゆくまで楽しさ、ありがたさを感じるようになりました。また、「気構え」と「からだ」との関係についても自分の経験を交えて少し述べてみたいと思います。

普段の生活では、病気や怪我をしないにこしたことはありませんが、生身の体です。何が起こるかわかりません。普段から準備できることへの備え、など考えてホームドクターとのお付き合い、寿命と健康寿命、人生の終わいたら、より毎日が安心に過ごせるのではないでしょっか。


ついつい:不知不觉 ほどほど:适当的 心ゆくまで:心满意足
生身:活人 気構え:精神准备
1.策者によると、生きていく上で、何が大切か。
A.心の状態と、体の状態のパランスをしっかり見ること
B.食小をする際の、栄養と量のバランスを考えること
C.生活と仕事のバランスを考えて、無理をしないこと
D.家族と自分の成長のバランスを見て、調節すること
2.(ア)の中に入れるものとして、一番適切なのはどれか。
A.あらゆるB.いわゆるC.たとえばD.とにかく
3.筆者は「からだ」を使うとき、何が大切だと言っているか。
A.心も体もそんなにすぐには壊れないから、強くなるように努力すること
B.立派な志を持って、限界を突破するまでからだを使うということ
C.必死に体を労ることに努め、できるだけ疲れないようにすること
D.無理をせずに、自分のできる範囲で動かし、休養も心がけること
4.文中の「ついつい」とはどのような意味で言っているのか、。
A.好き好んで厳しい登山をして、満足感を得ようとしていたと)、うこと
B.ハイキングが好きなので、無意識のうちに山に登っていたと言うこと
C.故意にそうしょうとしたわけではないが、結果的にそうなってしまったこと
D.ジョギングのついでに山登りをして、うっかり長時間山にいたということ
5.より安心に過ごせるために、普段から準備できることについて、正しくないのはどれか。
A.いつ病気になるかわからないと心の準備をしておくこと
B.ホームドクターと良好な関係を築いておくこと
C.人生の終わりに向かって、色々準備しておくこと
D.頑張って運動して、健康を取り戻そうと努力すること
2023-04-24更新 | 9次组卷
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