1 . 京都は、(①)がいい。訪れるたびに、そう実感する。きのうは、まだ暗いうちに宿を出て、友人たちと賀茂川のほとりで。待ち合わせた②。水面で、鴨の家族が会話を楽しんでいる。小鷺が、孤独に立っている。鶺鴒(せきれい)が、枯れ草の中から現れる。遊歩道を大きな犬が、人間をお供に悠々といく。
風はほとんどない。午前七時になるかならずか、東山に日がのぽった。と、川に沿って、下流から上流へと、ユリカモメの編隊が、高速で飛来する。ピュンピュンピュンピュン。つぎつぎと、遠くの点が、見る見る拡大し、目の前を通過し、また点になる。壮大な躍動。これがお目当てだった。
タクシーをワンメーター奮発して③、二条麩屋町の小さなコーヒー店に行く。町屋づくりの格子戸を開けると、七人ほどが詰め合って座るカウンターだ。ご主人のコーヒーは、「点てる」という表現がふさわしい。それと、厚さたっぷりのトースト。
ある朝は、行屋町寺町下のパン屋兼喫茶室に出かけた。午前七時半には、出来立ての、まだ熱い、さまざまなパンと香ばしいコーヒーの用意が整っている。日曜なら、五条大宮の銭湯がいい。のんぴりと朝湯を楽しんだあと、男女共通のロピーで、名物のうどんを味わう。いける口④なら、生ビールもある。手製のつまみ持参の常連もいる。談笑に至福の時が流れる。
大都会にして、大都会にあらす。間近に自然があり、人と人とのほどよい付き合いがある。歴史を持つ街の、これが香気というものか。けれども、覚えのある格子戸の何軒かが、つぎに見たときには、まとめて、どこかで見たようなマンションに変わっていたりする。心が騒ぐ⑤。事情はあれこれあるのだろうが、ここも、ふつうの都会になってしまうのだろうか、と。
きのう、祇園などでは伝統行事の「事始め」。京の、正月を迎える支度が始まった。
1.文章全体読んで、(①)に入れるのに最も適当なことばを選びなさい。A.朝 | B.景色 | C.伝統 | D.自然 |
A.躍動感あふれるユリカモメの壮大な飛行を見るため |
B.京都のさまざまなおもしろい店を訪ねるため |
C.京都の都市開発の実態を調査するため |
D.正月の準備をする京都の伝統行事を見るため |
A.タクシー料金を不満に思う気持ち |
B.目的地はまだか、と焦る気持ち |
C.ちょっと贅沢をしようと言う気持ち |
D.少しでも節約しようという気持ち |
A.味にうるさい人 | B.のどが渇いた人 | C.話の好きな人 | D.酒の好きな人 |
A.新しい年を迎える準備が始まって、京都は活気にあふれ、とても風情があるから |
B.京都も開発が進んで、ふつうの都会になってしまうのではないかと心配だから |
C.おいしいものや温かい人々とのふれあいの幸せなひとときに心が弾んでいるから |
D.近代的なピルが古い歴史と美しい自然によく調和していることに驚いたから |
2 . 親友①とは何か。自分のいちばん親しい友だちというものはどういう友だちであるか。私の考えによると、いちばん親しい友だちというのは、いちばん深い孤独を与えてくれる友だちだ。
友情を結んだときの経験をとくと考えてみるとわかるように、昨日まで他人であった人間といきなり親しくなる。あるいは徐々に親しくなる。そういう場合、何が機縁となって親しくなるかといえば、言うまでもなくお互いに似たような運命や問題をもっていることだ。しかしお互いにその問題はわからない。つまりお互いに未知の世界の前に立っている。その②門口で心が触れあったとき、はじめて友情というものが結ばれるのである。お互いに相手の考え方や運命がわかってしまったら、(③)われわれは友だちになれないだろう。どうにも解決のできないさまざまの世界をもっているからこそ友だちになるのだ。互いに見知らぬ二つの生命の接触と燃焼と——この真剣ないのちの交差に友情は成り立つ。
われわれを甘やかしてくれる者は決して良友ではない。よく理解してくれようとすることは悪いことではないが、それだけでほんとうのいい友だちにはなれない。つまりいい友だちというものは、わからないところはどこまでもわからないものとしてお互いに追究しあう。あるときは責めあう。しかも意見の一致などということはない。一つの問題に対してさえ、どんなに二人が異なるかを身をもって知らされるような友情、それが尊いのである。
表面だけでひとと調子を合わせ、理解しあっているような顔をしているところに決して真の親しさは起こらない。④だから、ほんとうの友情というものはかえって( ⑤)ものなのだ。
1.下線①「親友」とは、どういう友だちのことか。次から筆者が述べている「親友」にあたるものを選びなさい。1.いちばん深い孤独を与えてくれる友だち
2.昨日まで他人であった人間と徐々に親しくなった友だち
3.相手の考えや運命をわかっている友だち
4.一つの問題についての二人の相違を知らせるような友だち
5.よく理解してくれようとする友だち
A.1と5 |
B.2と3 |
C.1と4 |
D.3と5 |
A.運命や問題(の) | B.何かの機縁(の) |
C.未知の世界(の) | D.生命の接触と燃焼(の) |
A.それで | B.だから | C.しかし | D.かえって |
A.いつでもふざけあっている交わり |
B.よそよそしく形式的な交わり |
C.問題があっても、それを解決しようとしない交わり |
D.互いの考え方の相違には触れない交わり |
A.あまい | B.つらい | C.きれい | D.ながい |
3 . 日本はもともと、①流動性の低い社会の中で、「分かり合う文化」を形成してきた。誰もが知り合いで、同じような価値観を持っているのならば、お互いがお互いの気持ちを察知して、小さな共同体がうまくやっていくための言葉が発達するのは当然のことだ。それは日本文化の特徴であり、それ自体は、卑下すべきことではない。
明治以降の近代化の過程も、価値観を多様化するというよりは、大きな国家目標に従って、価値観を一つにまとめる方向が重視され、教育も社会制度も、そのようにプログラミング(设计程序、制定计划)されてきた。均質化した社会は、短期間での近代化には好条件だ。日本は明治の近代化と、戦後復興という二つの奇跡を成し遂げた。
しかし、私たちはすでに大きな国家目標を失い、個人はそれぞれの価値観で生き方を決定しなければならない②時代に突入している。このような社会では、価値観を一つに統一することよりも、異なる価し値観を、異なったままにしながら、その価値観を摺り合わせ(相互摩擦、比较整理)、いかにうまく共同体を運営していくかが重要な課題となっている。
いま、あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視されるのは、ここに原因がある。「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換を図ろうということだろう。
(ア)、ここに一つの③落とし穴がある。
表現とは、単なる技術のことではない。間雲(胡乱、莽撞)にスピーチの練習を繰り返しても、自己表現がうまくなるわけではない。
自己と他者とが決定的に異なっている。人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴う形で記憶している者だけが、本当の表現の領域に踏み込めるのだ。
1.文中の「①流動性」とは何の流動のことか。A.川 | B.人口 | C.情報 | D.品物 |
A.価値観を一つに統一した時代 | B.近代化を成し遂げた時代 |
C.異なる価値観を持つ時代 | D.自己表現がうまくなる時代 |
A.だが | B.それに | C.また | D.ゆえに |
A.コミュニケーション能力が重視される。 |
B.表現とは、単なる技術のことだと思う。 |
C.「分かり合う文化」から、「説明し合う文化」への転換。 |
D.自己と他者との違いを把握する。 |
A.日本は流動性の低い社会だ。 |
B.明治以降の日本では価値観が多様化してきた。 |
C.あらゆる局面で、コミュニケーション能力が重視される。 |
D.表現の核は他者との違いを認識すること。 |
4 . 最近、言葉の変化が激しく、少し気になるのは「全然素敵だ」とか「全然いいね」というように、「全然」が肯定に使われる言い方である。「全然」というのは本来、否定の言い回し(说法)に先立って使われるもの。ほかに「けっして」や「ちっとも」などという「前ぶれの副詞」がいくつかある。
なぜこうした副詞が生まれたかというと、それは日本語の語順に原因がある。ちょっと難しい文法の話になるが、我慢して読んでいただきたい。日本語では主語の後にすぐ述語(谓语)が来ることが少なく、一番最後に来ることが多い。例えば「わたしは昨日学校に行ったら、宿題を忘れて先生にすごく怒られた夢を見たの」。最後まで聞いて初めて、ああ、夢の話だったのかとガッカリする。
今では(ア)言い方はされなくなったが、昔は駅のホームで電車を待っていると、次のようなアナウンスが流れた。「新潟行きの急行がまいります。この列車は途中、赤羽、大宮、熊谷……」。ホームにいる人はこれを聞いて、一体このたくさんの駅名がどういうことかと不安に思いながら聞いている。最後に「長岡、新津以外には停車いたしません」と来る。途中で止まる駅を言ったのかと気づくが、この中に自分の行きたい駅があったのかと、もう一度駅員に確認しなくてはならない。
このように、日本語では一番肝心(重要)な述語が最後に来るという欠点を補うために、前述した「前ぶれの副詞」が生まれたのである。「全然」と言っておけば、後で来る表現は否定的であることが予想できるし、「幸いに」と言っておけばこれは大丈夫そうだ、と相手は安心して聞いていられるのであろう。
1.文中に「少し気になる」とあるが、そはどんなことか。A.「全然」などの前ぶれの副詞がいつくかあること。 |
B.「全然」が肯定な言い方にしか使われないこと。 |
C.「全然」などの前ぶれの副詞が肯定に使われる。 |
D.「全然」が否定の言い回しに先立って使われる。 |
A.「全然」という副詞がどんな副詞かという話 |
B.難しい日本語を我慢して最後まで聞いていただく話 |
C.日本語の述語が最後に来ることが多い話 |
D.最後まで聞いて夢だったと分かった話 |
A.こんな | B.そんな | C.あんな | D.どんな |
A.先立って使われる副詞がないので駅のホームで流れるアナウンスが理解しにくい。 |
B.前ぶれの副詞が否定の言い回しに先立って使うほうが正しい。 |
C.日本語では述語がもっとも肝心なので、主語がなくても意味が通じる。 |
D.わたしたちは重要な情報を聞く場合、日本語の語順に注意すべきだ。 |
A.必ずしも | B.あいにく | C.非常に | D.まったく |
5 . 例えば突然の病気や怪我で、暫く入院生活を①余儀なくされてしまった場合、大抵、人は「ああ、なんて回り道(注1)に入ってしまったんだろう」と、くよくよ悩んで、落ち込んでしまうことが多い。「何ということだ。こんなところで大人しくしていなけりゃならないなんて、時間も暇もないというのに。」と、ついベッドで、ぎりぎりと歯軋りしてしまう。取り残されたような気分の中で。
こうした回り道体験を、損だと考えると、②それはマイナスの体験でしかなくなってしまう。(ア)、「しばらく一休みをして自分を見直す、きっといい機会なのだ。自分をここで振り返りなさいという知らせなのだ。」と、③とらえれば、決して悪いことではない。それは逆に自分を見直すいい機会となる。
私の友人は、転んで大脚部の骨を複雑骨折し、あらかた一月近くもの入院を余儀なくされた。普段から楽天家の彼は、いいチャンスとばかり、買い置さしていた折口信夫の全集を読破してしまった。
回り道も時にはこんなふうにメリットになる。
(注)回り道:绕远路
1.①「余儀なくされてしまった」とはどういう意味か。A.仕方なくされる | B.せずにはいられない |
C.無理矢理にされる | D.わけなくされる |
A.それに | B.だが | C.そいえば | D.なぜ |
A.回り道体験 | B.入院生活を余儀なくされてしまったこと |
C.自分を振り返らないこと | D.自分を見直すこと |
A.不確かなこと、わかりにくいことを自分の視野や知識の中に収めること |
B.しっかりとつかむこと |
C.動くものを取り押さえること |
D.身につけること |
A.誰でも回り道に入ってしまったときに、くよくよ悩んで、落ち込んでしまうことが多い。 |
B.こうした回り道体験を、損だと考えると、それはマイナスの体験でしかなくなってしまう。 |
C.回り道経験は逆に自分を見直すいい機会である。 |
D.回り道も人生を豊かにしてくれるいい経験である。 |
6 . 飼い主によくなついた(亲近、顺从)犬は、映像の中の自分と他の犬を見分けている可能性があるとする論文を日本の研究チームが発表している。飼い主が他の犬をかわいがる様子と、自分と飼い主が交流する様子を見たときでは心拍数の変化が見られたという。嗅覚に優れる犬は視覚に頼った生活をしていないとされているが、親しい人間がかかわると例外的な反応をするようだ。
イルカやゾウなどの動物は、映像や鏡で自己の姿を認識する能力を持つことが明らかになっている。(ア)動物は共通して高度な社会認知能力を持つが、同様に社会認知能力を持つ犬が自己を認識できるかどうかは分かっていなかった。
飼い犬が他の犬に“嫉妬”のような感情を持つとする先行研究を前提として研究チームは検証を行った。
実験では、鏡を見ることに馴れた12匹の犬に「飼い主が他の犬と交流しない」「飼い主が自分と交流する」「飼い主でない人が他の犬と交流する」「飼い主が他の犬と交流する」の4パターン映像を見せて、自律神経系の反応を心拍変動解析を用いて評価した。結果を見ると「飼い主が他の犬と交流する」映像と「飼い主が自分と交流する」映像の間で自律神経系の反応に有意な差はなかったという。(イ)、飼い主への愛着行動スコアが高かった犬のほうが自分が映っている映像に対して「興奮あるいは緊張状態」になったことが分かったという。
実験結果を受けて研究チームは、犬は映像で自己と他個体を区別することができるとは言えないものの、飼い主への愛着が強い犬については自律神経系が異なる反応を示すと結論づけた。今回の実験ではサンプル数が限られていたため、今後はさらなる研究が必要になるとしている。
1.映像で自己と他個体を区別することができるとは言えないのはどれか。A.イルカ | B.ゾウ | C.イヌ | D.ニンゲン |
A.嗅覚の優れている犬 | B.視覚の優れている犬 |
C.自分と他の犬を見分けられる犬 | D.飼い主への愛着が強い犬 |
A.この | B.こうした | C.あの | D.ああした |
A.だから | B.一方で | C.それに | D.そこで |
A.飼い主によくなついた犬は、映像の中の自分と他の犬を見分けている |
B.嗅覚に優れる犬は視覚にまったく頼らず生活をしている |
C.犬は映像で自己と他個体を区別することができる |
D.今回の実験ではサンプル数が多くない |
7 . 1980年代に北野武が、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という台詞を流行らせて以来、「みんながやっていることだから……」というタイプの言い回し(措辞)は、いかにも口本的で無責任な——本当はぜんぜん「正当化」になっていない——正当化の「論理」として悪名商くなった。
実際、渋谷のJR駅とセンター街を結ぶ交差点に典型的に見られるように、大集団が赤信号でも「みんな」でぐずぐず(磨蹭)と安心した様子で渡り続けていると、車の方は動けなくなってしまう。派手にクラクションを鳴らされても、「みんな」がいてくれると平気である。「みんな」がやっていることに慣れている(ア)、目の前にある交番の警官はあまり取り締まろう(管制)とする様子がない。(イ)車の方が、「みんな」で信号を無視している時もある。その時は、歩行者の方が「みんな」で動かなくなる。
本当に車が突っ込んでくれば、死ぬか大怪我をするのは最初の一人か二人だけで、後の「みんな」は驚いてさっと逃げてしまうのは明らかだ。しかし周りの「みんな」が安心そうに渡っているのを目にしていると、「わたし」がその「特別な一人」になる可能性をついつい忘れてしまう。通常は、たまたま「みんな」の群れの最後尾になってしまった人が、「みんな」からとり残されそうな恐怖感を感じながら急ぐので、適当なところで秩序が回復するわけであるが。
1.文中の(ア)に入れるのに最も適当なものはどれか。A.ことか |
B.ものか |
C.せいか |
D.わけか |
A.逆に |
B.以上 |
C.初めて |
D.対して |
A.車が信号を無視する時 |
B.弊官は取り締まる時 |
C.車が突っ込んできそうな時 |
D.派手にクラクションを鳴らされる時 |
A.信号無視の人 |
B.秩序を守る人 |
C.群れの最後尾の人 |
D.死ぬか大怪我をする人 |
A.信号無視は歩行者だけで、取り締まりにくい。 |
B.時に応じて、集団としての「みんな」が変容する可能性がある。 |
C.本のほうが「みんな」信号無視の時に、クラクションを鳴らしながらぐずぐず通る。 |
D.死ぬか大怪我をする人が出たら、「みんな」が恐怖感を感じるので、秩序が回復する。 |
8 . 植物には、春になると花を咲かせるものが多い。毎日の気温が少しずつ上がり、道ばたに花が咲いているのを見かけるようになると、「あ、春が近いな」と心が軽くなってくる。しかし、どうして植物は春に花を咲かせるのであろうか。春になると花が咲くのは当然のことだと思っていたが、それにも理由があくるはずである。その答えは、どうやら植物の生きる術に関係があるらしい。
日本には四季があり、春の次には夏が来る。夏は暑く、30度以上になる日も多い。春に花を咲かせる植物は、夏の客さに弱い植物である。植物は花が咲いた後に種ができるが、花と種ではどちらが暑さに強いだろうか。想像がつくと思うが、種の方が暑さに強い。だから、春に花を咲かせる植物は、春が過ぎると種になり、暑さに強い種の状態で夏をやり過ごすのである。
ここでまた疑問が生まれる。では、植物はどうやって夏が近づいてくることを知るのか。それは、植物が夜の長さを測れることに関係がある。
3月20日は日本では春分の日である。春の訪れを告げる日だが、この日に昼の長さと夜の長さが同じになる。春分の日を過ぎると少しずつ(ア)。そして6月の夏至の頃になると、最も夜が短くなる。植物は夜の長さが短くなっていることを感じ取って、やがて夏が来ることを知る。そして暑い夏に向けて種を準備するのである。
春に花が咲くのは、花が気まぐれに(随意地,随便地)咲いているのではなく、その後に来る暑さに向けての準備であったのである。同じように考えると、秋に花を咲かせる植物が多いことも理解できるであろう。
1.「心が軽くなってくる」とあるが、筆者のどんな気持ちが読み取れるか。A.さびしい気持ち | B.くやしい気持ち |
C.うれしい気持ち | D.はずかしい気持ち |
A.種になる | B.昼夜の長さを測る | C.花を咲かせる | D.想像する |
A.昼も夜も長くなっていく |
B.昼も夜も短くなっていく |
C.昼が長くなって、夜が短くなっていく |
D.昼が短くなって、夜が長くなっていく |
A.種がどれほど強いか分かったから |
B.花が気まぐれに咲いている理由が分かったから |
C.春になると花が咲くのは当然のことだと分かったから |
D.春に花が咲く理由が分かったから |
A.種の強さ | B.植物の生きる術 | C.日本の四季 | D.昼夜の長さの変化 |
9 . 曆の上での1年の始まりは、1月1日です。しかし、企業、学校などの「新年度」の始まりは4月1日なのです。これを「年度初め」とも言います。なぜ「年度初め」は4月なのでしょうか。
「年度」とは、「会計年度」と呼ばれ、官公庁が予算を執行するために規定された1年の区切り方です。会計年度は明治19年(1886年)に始まりました。当時、日本の主産業は稲作でした。政府の主な税金収入源が農業の米だったのです。納税は米ではなく現金だったので、農家が秋に米を収穫し、それを現金に換えて納税し予算を編成すると、1月では間に合わず、4月からするのが都合が良かったため会計年度を4月にしたと言われています。
また、当時世界一の経済力を誇っていたイギリスからの影響が考えられています。では、なぜイギリスでは4月始まりとなったのでしょうか。それは、1752年にイギリスが太陽暦に改暦したことと深い関連があります。この年にイギリスは従来まで3月25日だった年初を1月1日に変更したのです。この暦を採用したことにより、支払いに関しての問題が発生しました。「その年の支払いは年内に」という商習慣により、支払いの期限も3ヶ月前倒じ(提前)となったわけです。じかし、当時のイギリスには、年内の支払いを、年明け後1週間までは猶予する(缓期)という伝統的な習慣がありました。従来の3月25日を年初とすると、3月31日はその猶予期問内になります。(ア)、金銭のやり取りの締め切りを3月31日とすることで、商習慣を変える必要がなくなったので、イギリスは、会計年度を4月1日から翌年3月31日までとしたのです。
1.文中に「4月からするのが都合が良かった」とあるが、それはなぜか。A.納税手続きには時間がかかるから |
B.1月は休みが多くて、働かないから |
C.会計制度は毎年4月1日に始まるから。 |
D.米を現金に換えるのに、1カ月かかるから |
A.4月始まり | B.世界一の経済力 |
C.明治の改暦 | D.イギリスからの影響 |
A.太陽暦に改暦したこと | B.商習慣を変えたこと |
C.支払い期限が変わったこと | D.年初の時間が変わったこど |
A.または | B.そこで | C.それに | D.ところで |
A.会計年度とは | B.イギリスの歴史 |
C.日本経済の基盤 | D.新年度はなぜ4月なの |
10 . 人生はいつも旅に準えられる(被比拟)。
人は人生という旅路を地図もなく歩いている。誰でもそうだし、それが人間としては自然な姿である。人生に地図などあるわけがない。
そして自分の地図には、人生の設計図としてわがままな道程(路程,过程)が記されている。三十歳までには結婚し、三十五歳頃には二人の子供を持つ。四十歳には課長になり、五十歳までには何とか部長に昇進(晋升)する。
(中略)
人生の地図に書かれた道を、その通りに歩むことができるなら、そんなに( ア )なことはない。一度も脇道(岔道)にそれずに、ただまっすぐに歩くことができるのなら、人は何も悩まなくても済むだろう。そんな人生を送る人間は、恐らくこの世に一人もいない。もしそういう人間がいるのだとしたら、それはその人間の人生ではない。①その人生は他人から与えられたものに過ぎない。
ところで、目標を持つことはもちろん大切なことだ。しかし、その目標へ辿り着く(好不容易走到)道は決して一本ではない。一枚の地図しか持っていない人、あるいは決して地図を書き変えようとしない人は、そこで人生の現在地を見失ってしまうだろう。
地図を持たない人生が不安であるならば、地図を持てばいいだけのことだ。しかし、その一枚の地図に拘ってはならない。常に現在地を確認しながら、どんどん地図を書き変えていくことだ。
少し脇道に入ってしまったのなら、その脇道を歩いてみればいい。無理をして元の道に戻ろうとしても、余計に迷うだけだ。人生には数え切れないほどの道があることを知っておいたほうがいい。今いる場所さえしっかりと認識できていれば、人はどんな道だって歩いていくことができるものだ。
(摘自:立松平和『人生の現在地――まだまだ迷っているぞ、私は。』有删改)
1.( ア )に入れるのに最も適当なものはどれか。
A.喜 | B.怒 | C.哀 | D.楽 |
A.地図通りの道を歩む人生 |
B.他人と同じような道を歩む人生 |
C.道に迷いながら歩んでいく人生 |
D.地図に頼らずにまっすぐに歩む人生 |
A.人間として自然な姿だから |
B.希望通りの人生を送りたいから |
C.行くべき道がわからないと不安だから |
D.早く目標に到達しないと不安になるから |
A.今いる場所を認識するとともに、地図をかき変えていく。 |
B.人生に地図はあり得ないことは、恐らく人間にとって自然な姿だ。 |
C.人生の地図にかかれた道をまっすぐに歩ける人間はいない。 |
D.人生の現在地を見失ってしまうのは、地図を書き変えようとしないからだ。 |
A.人生の可能性を広げるには、地図にない道を進むべきだ。 |
B.たくさんの地図を用意しておけば、人生で道に迷う心配がない。 |
C.人生は現在地さえ分かっていれば、新たな道を進むことができる。 |
D.人生は行き先を決めれば、道に迷わずに自身の力で歩んでいける。 |